7年ほどプロテスタント系の教会に通いましたが、現在では毎週教会に通うわけでもなく、全てにおいて清く、正しく生きているわけでもなく、ただ“世に存在しているだけ”の何の信仰的な権威もない者です。
好き勝手に生きている、と言われたら確かにそうです。好きに、勝手に、思いのままに生きていると思います。そのような者がこうしてキリストの名を出すことが許されると思っているのかと、私自身が何年かの間自分を許せませんでした。許さない方もいるのかもしれません。
ですが、私がどこでどんな罪を犯そうとも、どう生きようとも、全てを見て、知っていて、私の人生そのものがすでに御手に握られている。私が思ったままに生きて、どうなろうとも必ず良いように使ってくださるだろう。それでいいと思うようになりました。
人生を投げ捨てたわけではありません。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。(マタイによる福音書 6:26)」素晴らし価値ある功績を残せるかわかりませんが、このように例えに語られた鳥のように、私の人生はもう十分天の父に養っていただいているのだから、神様を信頼して、せめて種でも蒔いてみようと思います。
私がこれから提案する、提供するものはきっと、私自身が新しい視点でキリストを発見するための挑戦となると思いますが、私なりに、少しずつアップデートしながら、キリストを感じられる瞬間が世の中に増えるように活動していこうと思います。種を蒔いてみて芽が出て収穫できるかどうか。刈り入れて倉に納めることができるか、見守っていただけますと幸いです。

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